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電波おやじ2014年山陰地方の旅①

■5月3日(土)憲法記念日東京:晴れ⇒厚狭(山口県):晴れ
今回のツーリングは梅雨が始まる前に本州の西の端、山口県長門市から京都府舞鶴市までの【日本海側ルート】約700kmのルートを選択しました。

7:13東京駅発の新幹線(のぞみ153号)と、広島11:36のこだま735号を乗り継いで山口県山陽小野田市の厚狭駅へ到着する。

●JR厚狭駅
JR厚狭駅
【厚狭】(あさ)の地名から…どんな地形かな?と想像していましたが、駅前にタクシーが数台止まっている、ごくごく普通の田園風景の中の駅でした。

●寝太郎の像
寝太郎像
タクシー溜まりに【寝太郎】と言う珍しい名前の立像がありました。
もともとは中国地方の大大名だった大内氏の武将でしたが、駅名にもなった厚狭川を開拓し、民衆に慕われ、寝て暮らしていた人物だったとの事です。
それにしても、羨ましい名前ですね!
寝太郎説明書き

5月の強い陽射しの中を5~10分ほどの自動車教習所の脇のヤマト運輸の営業所へ【電波号】を取りに行く。
やっと南風に「宅急便」の幟がはためく営業所へ到着したと思ったが…どうも様子がおかしい?
「宅急便」と合わせて「ボクシングジム」の看板がある?
中にいたヘビー級のおばちゃんに尋ねると「営業所は昨年で廃止した」「駅からクルマで15分程の集配センターに移った」ョとの事。(」゜□゜)」♪ガ~ン

Googlの地図では記載しているのに…スタートから手間ばかりかかるな(-_-#)

ε=ε=┏( @_@)┛急いで駅前に戻るもバスは1時間に数本の往復しかなく、タクシーで取りに行くしかない…金ばかりかかるな(-_-#)

そんなコンナで、初日のスケジュールは厚狭から長門市までの中国山地(40~50㎞)を横断する予定でしたが、これから横断する緑輝く中国山地の山々と、そこから吹き付ける強い逆風にはためく駅前の幟り旗を眺めると、流石に戦意が無くなりました。

たまには【電波おやじ】ではなく【電車おやじ】でもなるか!
と1両編成のディーゼル車 JR美称線(15:17発)に乗り、一路、日本海側の長門市(仙崎)へと向かう。
「人間 50年 も経つと、楽な方へ楽な方へと傾いて」しまうものだな…。

こんな「チッコイ」汽車で山越えられる?かと思いつつシャッターを切る。
美称線
車内は部活帰りの高校生や同じような恰好した観光客でに満席状態。
車窓からは国道316号線沿いのガソリンスタンドの赤や黄色い幟旗が「強い逆風(向かい風)」に、千切れる様に、飛ばされる様に、はためいてました。
登り坂から吹き降ろす【向かい風】ほど、【最低】なものはありません!

電車で良かった!

●仙崎駅
仙崎駅
夕暮れの駅前には誰もいない…。
空にトンビ(?)が「ピ~ヒョロ、ロ」と鳴きながら数羽飛んでいるだけ(寂)

電波号を組み立てていると、地元のボランティアのおばちゃんが「どこから来たの?」と声を掛けて来た。
そんなに珍しいのかな…?

深川湾沿岸
夕方の深川湾の海岸通りを…JR長門駅前を通り、今夜の宿まで数キロ。
JR長門駅
まだ、だいぶ明るいけど…西国(山口県)の初日は暮れて行きました。

■本日の走行距離:3.57km


■5月4日(日)みどりの日
長門市:晴れ

今日は国道191号線(北浦街道)で【明治維新】の原動力となった志士達の学び舎の萩市内の【松陰神社】【松下村塾】を見学に、いざ出発∠('-')

●国道191号線
国道191号線
ご覧の通り、自転車走行可の歩道は車道と同様の幅広で路面状況も良く、且つ、車道との段差もない(バリアフリーと言うのか?)状態で、大変走行し易かった。

国道191号線から見た海
このまま「ズ~と」坂も無く、走って行ければ最高!な~んて五月晴れの空の下、時々見え隠れする海を眺めながら国道を東へと向かう。

●村田清風記念館
国道沿いに「村田清風記念館」の標識を発見!左折するとすぐに畑の向こうに現れて来た。
村田清風記念館
村田清風記念館説明書き

●三隅山荘(村田清風宅跡)
村田清風宅門
小路を挟んで記念館の反対側に「村田清風宅跡」がありました。小さい木造の門を潜ると、「質素で古い造りではありますが「質実剛健」の気風が残るお宅がでした。
村田清風宅
村田清風:1783年(天明3年)~1855年(安政2年)
長州藩士、「明倫館」卒の秀才で、「天保の改革」時に藩士の負債を※37年間の長期弁済で解決したりして、藩財政を立て直した人物。彼の業績が「明治維新」の礎となりました。
※三七ヵ年賦皆済仕法(家臣の負債を借銀1貫目につき30目を37年間支払えば元利完済とするもの)

●鎖峠
鎖峠
長門市と萩市の境の鎖峠(標高231m)
大した標高ではないが、ふだん坂道で鍛えていない朝一番の身体には、この峠道は堪えた。
まるで、重い鎖を引きずりながら登っているようだ( ̄○ ̄;)

「ほ~コケキョ♪」の囀りを聞きながら、誰もいない山中峠道のピーク(てっぺん)で小休止。

鎖峠を越え、玉江橋で橋本川を渡り、三角州の河口にある萩城跡へと向かう。

萩城下町
GW連休中の萩城下町を通り、白い漆喰(しっくい)の壁と石垣に囲まれたお屋敷通りへと出る。
静か…。

●天樹院墓所
天樹院鳥居
萩高校前を通り天樹院墓所へ到着。
見学料:20円

天樹院境内
鬱蒼とした薄暗い林の先に毛利輝元公のお墓がありました。
ここには輝元公に殉死した家来が飼っていたネコのお墓もありました。

天樹院説明書

●萩城跡(指月山公園)
萩城跡入口にある今夜のお宿(萩ユースホステル)へ到着。
荷物を預けて身軽になり、萩城跡へと向かう。(歩いて5分程の距離だが…。)

萩城址
ここが「関ヶ原の戦い(1600年)」後に、指月山に「詰めの城」を配置した、松本川と橋本川の中州に建てられた毛利家の居城跡。
「臥薪嘗胆」徳川幕府に忍従し、明治維新の志士達はヽ(*`0´)ノ!「打倒!徳川」を目指し!
この小さな城下町から日本全国、さらには世界中へ飛び立って行ったのですね!
萩城址説明書

萩城址お濠
お堀には沢山のカメと色とりどりの鯉が餌に群がっており、子供たちが餌やりに忙しく走り周り…。

萩城址藤棚からお琴
藤棚の陰からはお琴の音色が流れて来ました~♪

●天守閣跡
萩城址天守台跡

●天守閣跡から指月山を望む
天守台跡から指月山を見る

●萩城天守閣(古写真)
萩城天守閣(古写真)

●指月山/詰丸跡
指月山

詰城

●志都岐山神社
志都岐山神社
指月公園内にある萩藩歴代藩主が祀られている神社。
毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を5柱として、初代から12代まで萩藩歴代藩主が祀られています。
志都岐山神社本殿

萩城址と指月山

●毛利輝元公像
毛利輝元候像
毛利輝元公説明書き

●旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
萩城跡の駐車場の向かい側に旧厚狭毛利家萩屋敷長屋が有ります。

毛利三矢の教え図
外観は立派な長屋造りとなっており、質素な室内には有名な毛利の「三矢の教え」の絵が飾って有りました。

萩城址模型

萩城址外運河
萩城跡から松陰神社までの5㎞程の道のりは、萩城下町が河口近くの三角州にある為、自転車の走行は大変楽でした~♪(数分で到着)

●松陰神社(松下村塾)
松陰神社鳥居
江戸末期に安政の大獄で刑死した、明治維新の起点となった松陰神社(松下村塾)へ到着。
境内には観光客でいっぱい。

●明治維新胎動之地
明治維新胎動之地の碑
元内閣総理大臣佐藤栄作著

●「親思う こころにまさる 親心 
きょうの音ずれ 何ときくらん」の碑

「親想う…」の碑
 安政の大獄で刑死する時に、故郷の両親に先立つ不孝を詫びた書簡です。さぞかし、無念だったと思います。

●孝行竹孝行竹
この竹は横走地下茎が発達せず、横にはびこらず、親竹の周りにのみ竹の子が育つ。
従って、親を守る竹という意味で孝行竹という。
松陰先生は親孝行であり竹を愛した記録もあり、記念として寄贈されました。

平成5年に皇太子・皇太子妃殿下、また翌年には天皇・皇后両陛下が行幸(ご訪問)され、石碑には、「天皇・皇后両陛下と皇太子・皇太子妃両殿下の行幸啓」と刻まれておりました。


●松下村塾
松下村塾①
ここで吉田松陰より高杉晋作や伊藤博文らが学びを受けた学び舎です。
小さく、狭い塾内には明治の元勲(伊藤博文・山縣有朋)等と共に、高杉晋作と蛤御門の変(1864年:元治元年)で討ち死にした久坂玄随瑞の写真が掲げられておりました。
松下村塾説明書き

松下村塾②

●吉田松陰画像
吉田松陰画像

松下村塾内部①
松下村塾内部②

●松陰神社
松陰神社鳥居②

●高札場
高札場
高札場説明書き
江戸時代の街道筋には必ずあった高札場が再現されてました。
幕府や各藩・奉行所(お役所)からのお定め(お触れ)を掲示している場所と思っていましたが、ここには他に、「刑場」「晒し場(さらしば)」としても利用されていたとの説明書がありました。
何だか祟られそう…(ノ><)ノ

●円政寺
円政寺
アーケードがある商店街入り口の高札場から、人混みで溢れる昔(江戸時代)のままの「狭~い」区画の通り高杉さん(高杉晋作)のお宅へと向かう。
途中、高杉晋作や伊藤博文が勉学に励んだ寺として知られている「円政寺」があり、2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」決定!!の幟(のぼり)が揚がっていました。

●高杉晋作立像
高杉晋作立像
途中の「晋作広場」に「高杉晋作立像」を発見!
駐輪場もあり、電波号をおいて見学しました。
けっこう自転車で回られる方が多かったのには驚きました。

案内図
この界隈(同じ町内と言うほどの近所)には、後に初代内閣総理大臣となった伊藤博文の生誕地や木戸孝允の旧宅もありました。

●高杉晋作旧宅
高杉晋作生誕の地
昼食後、高杉さんのお宅へ訪問しました。
狭い城下町の路地には観光客でいっぱい、高杉さん宅も人混みで身動きができない程でした。
高杉晋作旧宅②

●東行先生誕生地之碑東行の碑

内部には見た事のある高杉晋作の写真の他に、奥さんの「雅子」さんの写真もありました。
高杉晋作旧宅内部

高杉晋作画像

高杉雅子画像

●「西へ行く人をしたひて東行く 
             心の底そ神や知るらむ」の句碑

東行の句
文久3年(1863年)3月16日 頭を剃って東行(とうぎょう)と号した時、京都にて詠んだ歌
(意)西行を慕って頭を丸めたけれども自分の心は逆に東へ行くのだ。その心は神だけが知っているのだろう。

●初湯の井戸
高杉晋作旧宅 初湯の井戸

●田中義一の像
高杉さん宅を後にして、今夜へと戻る途中の公園に一際目立つ高さ(大きさ)の立像を発見!
誰だろう?と近づいてみると名前だけは知っている田中さんでした。
田中儀一立像
田中義一説明書き

夕暮れ時になり、空も曇りはじめ「一雨」有りそうなので今日はここまで、終了!


■本日の走行距離:45.16km
■■累計走行距離:48.73km



■5月5日(月)子供の日萩市:曇り~晴れ
朝飯を食べていたら、東京で地震とのNEWS速報が入る。
実家(埼玉川越)へ安否確認したが、「電車の揺れで、いつも震度3」との事…。
3.11の時の様な震度5ぐらい来ないと、どうも地震とは感じない様なので、ひとまずは安心。

そうこうしているうちに昨夜の雨もやみ、少~し、晴れ間が出て来た!

もう春だし…走れば身体も熱くなる!と、出発!
真夏の装備しか用意していなかった…雨上がりで少し肌寒い
ウインドブレーカーの代わりにレインウェアーを着て高杉晋作ではないが北浦街道(国道191号線)を※【東行】する。
※「東行」は晋作の諡号(しごう:贈り名)

●白波を立てている海岸
美味しそうな海藻(わかめ?)が流れ着いてました。


海岸線①
沖には波に揉まれながら小舟に乗った漁師さんが漁をしてました。

海岸線③

海岸線②
更に進むと海上に何かが?動いている…浜辺近くまで来るとサーフィン(パドル付き)

海岸線④

●井部田トンネル(317m)
井部田トンネル

●山口島根豪雨災害工事現場
災害復旧工事現場
登坂車線を登り、渋滞している片側通行のトンネルを抜けると、山中にも関わらず何故か?そこだけポッカリと開けた場所へ出ました。
地震で山が崩れ、道路の法面(のりめん)斜面もえぐられ、地肌がむき出しになったのか?と思っていましたが、工事現場の方にお話しを聞くと、ここは2013年7月27日に発生した山口島根県境で発生した「豪雨災害痕」との事でした。
・山口市内で1時間当たり147mm、山口県で最大、全国でも11番目。
・津和野市内1時間当たり381mm、島根県で観測史上最大の降水量を記録しました。

現在は架橋で道路をつなげていますが、橋の下には昨日降った雨水が流れています…。
相当な大復旧工事になりそうですが、山陰地方からを東へ延びる道路はこの「道」しかなさそうです。

工事現場の皆さん、これからの一日も早い(安全で怖くない道路の)復旧をお願いします。

●須佐駅
須佐駅
峠のからは麓まで一気に国道を下る。
「人生下り坂~最高♪」
須佐駅前で小休止。


●手塚猛昌の彰之碑

手塚猛昌の碑(時刻表の父)
明治時代の実業家。本邦発の「全国時刻表「汽車汽船旅行案内」を発行した人物。との事でした。

●須佐男命イカ(すさみこといか)
駅舎には「須佐男命イカ」のパンフレットがやたらとありました。
このイカは須佐町(現、山口県萩市須佐地区)で水揚げされる活きた状態の剣崎イカのローカルブランド名との事です。

●山口島根県境
山口島根県境
それにしても今回のツーリングは想像以上に、やたらと「坂」が多いな!と一人つぶやきながら、山口島根両県境へ到着。
島根県へ入ると午前中と打って変わり、日焼けや紫外線が気になるほどの、とても良い天気となりました。

●柿本人麻呂生誕地
柿本人麻呂生誕地
県境から市街地まで来たが、街道沿いには民家とガソリンスタンドやJA(農協)の建物ばかりで、昼飯を喰わせてくれる店がなかなか現れない。
ついに陽炎が立つ路面の先に、一軒のラーメン屋が現れる!

味噌ラーメン定食で一服後、何気に山を眺めていると「柿本人麻呂生誕地」の看板が目に入る。
この先が有名な万葉歌人の生まれた地なのか?

●三里ヶ浜海岸海水浴場三里ヶ浜海岸海水浴場
山陰本線と並行しながら国道191号線で益田市郊外へ到着。
海岸線の眺めが美しい。

●浜田城址
浜田城址説明書き①
夕暮れ迫る浜田市内へ、浜田城址は市街地の真ん中の小山にありました。
本日最後の坂道か?と思いつつ、カッタルイので電波号を転がす脇を、クルマがギヤを入れ直して、苦しそうな排気音を残しながら坂道を登って行く。

元和5年(1619年)、伊勢松江の城主吉田重治が、5万9000石で浜田に入封 1年間の突貫工事で築城した後に、城主が何回か変わり、最後は松平家で幕末の慶応2年(1866年)、大村益次郎の率いる長州軍に破れ落城しました。
浜田城址説明書き②

●木口小平の像
木口小平の像
二の丸の護国神社には「木口小平」の像があります。
この像は日清戦争時に突撃ラッパを吹いている最中に戦死した兵隊さんの像です。
戦前の修身の教科書には「シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と掲載された英雄となっておりました。
説明書きを読むうちに、はるか昔の幼き頃、亡き父から「木口小平の突撃ラッパ」の話を聞かされた事を思い出しました。

●浜田城址入り口
城址入り口は山頂の広場の目立たない様に奥まった所にありました。
クルマで坂道を登って来たご夫婦連れは発見出来ずに、諦めて坂道を下って行きました。
電波おやじは「気合い」と「根性」で粘って司馬遼太郎の「浜田藩追懐の碑」と合わせて見学する事ができました。
浜田城址階段
浜田城址入り口説明書き

●浜田城址本丸跡
浜田城址本丸跡

浜田城址本丸跡広場
山頂部の城山広場には当時、本丸と三層櫓があったとの事です。

●松原浦
外の浦の湊


●外の浦の湊

外の浦
本丸跡からの眺望は見事でした。
この湊は北前船が盛んに行きかっていた浜田藩最大の貿易港となっていたとの事です。

●浜田港遠望
浜田港
現在の浜田港は水産港で島根県最大の港です。また韓国釜山間との国際港にもなっています。

●旧浜田県庁の門
本丸へのルートには立派な門がありました。
この門は明治初期の廃藩置県時の1871(明治4)年に石見国津和野藩(廃藩)が浜田県に合併した際、不要になった津和野藩庁の建物と門を翌年、浜田県庁舎として現在の浜田郵便局(浜田市殿町)へ移築し、更に門は、1967(昭和42)年に県から浜田市に譲渡され、現在の場所へ移されたものです。
浜田城址入り口門

●浜田藩追懐の碑
司馬遼太郎の石碑

浜田城の石碑

浜田藩の追悼の碑
浜田城の入口付近、浜田護国神社の境内に作家司馬遼太郎の「浜田藩追懐の碑」が平成元(1989)年に建立されています。
同氏は、靖国神社にも立像があり、またNHK大河ドラマにもなった小説「花神」の主人公の長州藩士大村益次郎(村田蔵六)の石州口の戦い(第二次長州征伐)の取材の為、浜田へ滞在したとの事です。


浜田の居酒屋
宿で旅埃を落とすと、窓の外には浜田城址のシルエットが夕方から夜へと移っておりました。
ホテルのフロントで飲食店街のパンフレットをもらい、いざ出陣(居酒屋へ夜討ちだ!)

のどぐろの刺身
山陰名物の「ノドグロ」の刺身を食す。
さすが、名物だけあって美味い!(返り討ちに合ってしまった!)

■本日の走行距離:104.76km
■■累計走行距離:153.49km


PARTⅠはここまでデス。
ご覧いただきまして有難うございました。
ご迷惑でなければ拍手またはコメントをお願いします。
尚、「この旅」はPARTⅢまで続きます。
現在、PARTⅡを鋭意作成中です。
しばらくお待ち下さいませ<m(_ _)m>
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プロフィール

55GATs

Author:55GATs
年齢57歳 男性 血液型O型 身長176㎝ 体重67.4㎏ 体脂肪率21.4% BMI21.8 内臓脂肪レベル7 体年齢41歳 未婚
某通信会社勤務 
趣味:①ロードスポーツサイクルでの全国縦断の旅。札幌~稚内を走破すれば「全国縦断達成」②1/144の戦車や飛行機スケールモデル造り。③読書(特に歴史時代小説)④映画観賞(但し、ホラー等の怖い、気持ち悪いのはダメ)⑤TV視聴:頭を使わない『白痴TV番組』等が多い。
⑥お酒は何でもOK(お付き合い程度)

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