■5月4日(水) 晴れ(7日目)
翌朝は昨日の雨が嘘の様な晴天でした。ずぶ濡れで重たくなったシューズも乾き、さあー松山まで走るぞ~。
その前に、大洲城跡を見学。
大洲城 9:13

肱川(ひじ川)沿いに建つ小さいながらも白い漆喰が綺麗なお城でした。
既に開城前の駐車場にはマイクロバスが数台止まっており、お爺~さん、お婆~さんの団体さんが一番乗りを目指して天守閣までの坂道を登っていました。

この大洲城には若い娘を「人柱」にした怖~い言い伝えがあります~(m-_-)m
鎌倉時代にこの辺りの宇都宮という守護(殿様)がこのお城を建てた時に幾度も石垣が崩れてしまいう為、くじ引きで人柱を決めたとの事です。その犠牲となったのは、おひじという名前の若い娘でした。
おひじは「城下に流れる川に私の名前をつけて下さい」と言って、人柱として埋められてしまいました。
かわいそう~。
おひじの頼み通り、城下を流れる川に「ひじ川(肱川)」という名前をつけて哀れなおひじの霊を慰めてやったそうです 人(・ ・;)
それからというもの、誰が言い出したのか、お城も「ひじ城」と呼ばれ、おひじの住んでいた場所も「ひじ町」という名前で呼ばれるようになったという事です。
肱川(ひじ川)を渡り隣の内子町に入る頃には、昨日の雨も蒸発し蒸し暑くなり始め、和夏(のどか)な田園風景を眺めつつ、いつしか銀輪は山間部へと向かうのでありました。
この辺りの国道56号線は路肩にも轍(わだち)や一部陥没している箇所が有って走りづらく、バスやトラックに追いかけられる様に峠道を下って行きました。
初夏の緑に覆われた山間部の小さな(確かJA農協)店先で、いろいろな野鳥(例:カッコーや鶯)の囀ずりを聞きながら、嗚呼~何て平和なんだろう~!と小休止。
やがて国道56号線は松山自動車道の伊予インターの下を通り伊予市街地へ入る。
「昔、松本伊予なんて言う歌手がいたっけナ」などと「ポ~」としている頭上には青空に綺麗なヒコーキ雲が引かれていました。
既にこの辺りでは32℃程の気温となっており、路面からの眩しい照り返しや、信号待ちでは身体が融けそうだ(-o-;)
松前町(まさきちょう)に入ると松山市まではあと少し!
国道56号線も松山市駅を過ぎ、松山城の濠端沿いには市電や「坊ちゃん列車」が走っているのが眼に入って来ます。「とうとう松山に到着したゾ!」
松山城 13:39

慶長7年(1602年)に賎ヶ谷合戦(天正11年/1583年)の「賎ヶ谷の七本槍」の一人に数えられた加藤嘉明(よしあきら)によって着工され、寛永4年(1627年)に次の城主となった蒲生氏郷(信長の娘婿)の孫の蒲生忠知(ただとも)によって完成しました。
大天守と小天守
乾櫓の扇の勾配が見事でした!

松山城を2時間程見学していた為か?小腹も減って来たので今夜のお宿(松山ユースホステル:道後温泉本館まで徒歩5分程)へ向かいました。
「坂の上の雲ミュージアム」 15:14
レトロな形の県庁前を走る市電を追いかける様に「道後温泉駅」へ向かうと間もなく「坂の上の雲ミュージアム」の案内が見えて来ました。

同ミュージアムは明日見学の予定でしたが、少し寄り道して事前チェック!(こういう事前チェックは大好きです)
ミュージアムの特徴のある建物の前まで来ると、日焼けした顔に立派な口髭を生やした日露戦争当時?の旧帝国陸軍将校?の格好をした案内係りの方(?)がいました。
「暑い中ご苦労様です」と言って、写真でもと考えましたが、妙に軍服姿が似合っている事もあり「帝国軍人を愚弄する気か!」「比国民めが!」等と言われそうなのでヤメました…本当は、デジカメ出す前に、ポカリスエット持って館内へ消えてしまいました。
来館者用チラシには、この方はボランティアグループ「坂の上清談会」別名「坂雲ウェルカム隊」の代表者:高岸喜久男氏でした。これかも頑張って松山をPRして下さい∠('-'
道後温泉本館前を通りましたが、連休の為か?温泉に入るまで1時間半待ちとのプラカードが出てました!この暑いのに行列してまで温泉に入りたいのかな?(明日入ろう!)
■走行距離:60.53km
■累積走行距離:639.64km■5月5日(木) 晴れ(8日目)
道後温泉本館前 09:32

翌日、市内観光へ向かう道すがら温泉街を「偵察」するも、既に道後温泉本館は朝から行列!大繁盛!スゴイ!
■道後温泉の由来(神の湯階下入浴券からの抜粋)
神代の昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が伊予の国へ来た時に、少彦名命が重病に倒れました。大国主命は湧き湯に少彦名命を浸されたところ、たちまちご快癒されたとの事でした。この事により二神が沿池を整えたのが道後温泉のはじまりと伝えられてます。
大正13年に建築された南棟と玄関棟は平成6年12月に「道後温泉本館」として重要文化財に指定されました。
※入浴料の一部は本館の保存修復に役立たれています。
坊ちゃん列車 09:37

道後温泉駅前から松山観光港へ向かうと途中。
良い天気だなん~て朝日が眩しくボ~として道後公園(湯築城跡)前を走っていると突然!背後から坊ちゃん列車の大きな汽笛が鳴り「ビックリ」して、危うく花壇の植え込みに突っ込みコケそうになりました。よくも驚かせてくれたナ…。
上り列車が行けば下り列車も来るだろう!と考えると前方に「坊ちゃん列車」発見!
松山駅前 10:10
駅前に近代俳句の創始者 正岡子規の句碑がありました。
「春や昔 十五万石の城下哉」

明治28年(1895年)に日清戦争の従軍記者として戦地に赴く直前の句です。
観光案内(MAP)をもらう為一旦JR松山駅へ立ち寄る。
駅内駅前は坊ちゃんやマドンナに扮したコンパニオン達や観光客でいっぱいだ!こんだけの人数が道後温泉へ来たら、今日も温泉に入れるまで1時間~2時間待ちか?と不安になりつつ、伊予鉄道高浜線沿の熱い県道39号線で松山観光港へ向かう。
松山観光港 10:54
小一時間で松山観光港へ到着。

港と言ってもまるでどこかの小さな空港みたいなターミナルが建っており、桟橋にはスーパージェットと言う名前からして早そうな船や広島行きのフェリー等が停泊しており、また桟橋の端の方ではオジサンたちが釣りを楽しんでいました。

今の時期は何が釣れますか?と尋ねると「鯵(あじ)ぞな」(松山弁)との事でした。
その沖を先程のスーパージェットが白波を立てて疾走して行き、あっと言う間に遠く小さくなってしまいました。

オジサンも今度は大物だ!と竿をしならせましたが、こちらもあっと言う間に「逃げられた!」と肩を落としてました。今日は残念ながら「小さいのはネコのエサにするんだもし(松山弁)」くらいのしか釣れなかったみたいでした…。
あまり見ているのも気の毒なので駐車場へ戻ると、また正岡子規の句碑を発見しました。
「雪の間に 小富士の風の 薫りけり」子規

瀬戸内海を眺める小高い丘の上に司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」で一躍有名になった秋山好古(よしふる)真之(さねゆき)兄弟の像を訪ねる為、再び熱い県道39号線に戻りました。
県道39号線と並行して走る伊予鉄道高浜線の沖には、先程の子規の句碑あった「小富士」が美しく浮かんでました。
■秋山好古(よしふる)1859~1930

陸軍軍人・教育者 「日本騎兵の父」と呼ばれ、日露戦争ではコサック騎兵隊を破る活躍をしました。除隊後は故郷松山の北予中学校(現在の松山北高校)校長として、後進の育成に努めました。

昭和11年、弟の真之(さねゆき)に遅れて道後公園に銅像が建てられましたが、昭和18年に撤去供出、昭和45年に梅津寺に再建された。最初の銅像は「日本騎兵の父」にふさわしく乗馬姿でしたが、現在の像は立ち姿となっています。
兄の好古像を見学後、自転車をコロガし歩道橋で県道39号線を渡り、綺麗な山ツツジが茂る急な坂道を、弟の真之像へと向かいました。
■秋山真之(さねゆき)1868~1918

正岡子規と共に大学予備門(現在の東京大学)で学ぶが、文学を諦めて海軍兵学校へ入学。
日露戦争に参戦し、日本海海戦時のロシア・バルチック艦隊発見の電文末尾に加筆した「本日天気清朗ナレド浪高シ」は名文として知られています。

最初の銅像は昭和6年日本海海戦25周年を記念して道後公園に建立され、台座には海戦当時の連合艦隊司令長官だった東郷平八郎が真之を「知謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と称えた揮毫がありました。

昭和18年に兄の好古像と同様に撤去供出。その後石毛寺に再建、昭和43年に梅津寺に移され、現在は海を眺める姿でこの地に立っています。
暑い中、この公園を清掃していたボランティアの方のお話では、兄の秋山好古(よしふる)像は瀬戸内海を眺める様に遠く中国奉天(会戦)方面を、弟の真之(さねゆき)は日本海(海戦)の対馬方面を望む様に建っているとの事です。
また、同公園へ訪れた方のコメント(感想)を記載したノートを拝見させて頂いたところ、全国の老若男女が訪れており、中には自転車で秋田県から夏休みを利用して訪れた大学生のコメントもありました。
中々、気合いが入っていて、大変宜しい∠('-'
萬翠荘(愛媛県美術館分館 郷土美術館)15:43

松山藩主の子孫である久松定謨(さだとき)の別邸として大正11年(1922)に建設された。
木子七郎設計のフランス風洋館は、当時には珍しい本格的な鉄筋コンクリートの建設物。
建設の年には皇太子であった昭和天皇が宿泊されたとの事です。

映画のロケ地みたいでした。
愚陀佛庵(跡)
萬翠荘の裏の階段を登って行けば正岡子規と夏目漱石が50日余り暮らした家が復元されているはずでしたが…。
残念ながら、2010年7月12日の豪雨で、松山城の城山において土砂崩れが発生し「愚陀佛庵」が全壊してました。

坂の上の雲ミュージアム 15:52
萬翠荘、愚陀佛庵と隣接している坂の上の雲ミュージアムへ入館。
司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」の主人公、秋山好古、真之兄弟と正岡子規を軸にして松山の町を紹介してました。
秋山兄弟誕生地 16:02

江戸時代末期の天保年間より現在地にあった秋山家は昭和20年の空襲により焼失。図面は無い為、昭和初期に撮影された写真と、秋山家の子孫の聞き取り調査に基づき、昔からあった部屋4つ(8畳×2部屋、6畳×2部屋)と玄関、土間で復元されてました。
※秋山兄弟誕生地(公益財団法人常盤同郷会発行)パンフレットとより抜粋しました。

入口向かって右側には兄の秋山好古(よしふる)大将の乗馬姿像

(昭和11年の道後公園に建立された銅像のレプリカ像)、左側には秋山真之(さねゆき)中将像

(大正14年、教え子が寄贈した胸像)があります。

秋山兄弟産湯の井戸
兄弟が生まれた当時の位置と同じであり、側には好古の好物だったイチジクを植えてあります。
「熟慮断行」真之書
「人事に憂楽有り山光に古今無し」」
好古書
「春地天有心」好古書
「秋山両将遺邸保存会」記念碑

昭和12年(1939年)財界人有志によって作られた「秋山両将遺邸保存会」の記念碑。好古の友人である、井上 要、新田長次郎、真之の死を見取った山下 亀三郎などの名士の名前が刻まれています。
煎り豆
自転車で見学、それも四国を一周しているのが珍しいのか?
受付の方からNHKのTV「坂の上の雲」の劇中で真之が好物にしていた「煎り豆」を頂きました。
明治期の先人達が西洋諸外国に追いつこうと「一生懸命」に国づくりに励んだ姿が浮かぶと共に、頂いた「煎り豆」が五臓六腑にしみ渡りました。
これで四国一周の後半戦も大丈夫!明日からまた頑張るゾー V
道後公園 湯築城跡16:46

中世に、伊予の豪族河野氏が築いた城跡。現在は道後公園として整備され、武家屋敷などが復元されています。昔の殿様は待たずに「道後温泉へ入っていたンだろうな?」などと考えながら前を通り過ぎ、道後温泉駅前へ向かう。
道後温泉駅 16:51

「坊ちゃん列車」発見!
オモチャの様なコイツに今朝ほどコケさせられそうになったンだ!
こんなに小さくても立派に走るところが見事、でも汽笛は大きい!
後は道後温泉に入って今回の松山見学はこれでおしまい、温泉は空いているカナ?と期待と不安を混ぜながら、ペダルの回転数は、いやでも上って行くのでありました…。
道後温泉本館玄関前
空いている!BIGチヤンス到来!!素早く裏手にある駐輪場へ向かう!
漱石「坊ちゃん」の碑
駐輪場の前には漱石「坊ちゃん」の碑がありました。
また、本館玄関の反対側真後ろには厳めしい
又新殿(ゆうしんでん)
御成門があり、説明書きには全国で唯一の皇室専用浴場とありました。今の天皇陛下や皇室の方々も東京から温泉に浸かりに来るんかな?
道後温泉本館 17:05

素早く入館。我、突入せり!
中は男風呂と女風呂に分かれていて、混浴はありませんでした。
大正レトロの館内では残念ながら写真は撮れません!※重要文化財ですから…。
石造りの浴槽は結構広く、中も空いていて湯温もほどほど「嗚呼~。極楽極楽…。」
ただ、今までの暑さで日焼けして温泉に腕を浸すのがツラカッタ、痛かった、今日は妙に垢が出るな?と思っていたら、早くも腕の皮が剥けてしまいました。
何だ、かんだで一時間以上入浴してしまい、スッカリ、
茹で≡(・◎・)≡ダコ状態となってしまいました。
こちらも
タコです!

徒歩5分程の宿へ戻り、コインランドリーで洗濯して、夜の松山市内へ路面電車でGO!!
坊ちゃん列車(夜景)21:02

松山名物の「たこ飯」で腹も満ちたし、後は寝るだけ。
夜の坊ちゃん列車を見学し、坊ちゃんカラクリ時計のマドンナへ(*´O)ゞ おやすみのご挨拶。
坊ちゃんカラクリ時計
夏目漱石の小説「坊ちゃん」の登場人物たちが毎朝8時から夜の10時まで1時間毎に登場するとの事です。
ちょうど「マドンナ」が登場してました。
■走行距離:47.36km
■累積走行距離:687.00km■これからの電波おやじ自転車の「旅」の参考にしたいと思います。
ご迷惑でなければ、コメントや拍手を頂ければ、大変幸せです。宜しくお願いします<m(_ _)m>
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