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2010年九州道(長崎街道~鹿児島街道/長崎~熊本編:PART4)自転車の旅

■11月3日 晴れ
丸一日休養したので、ペダルも軽やかに…と行きたいところであったが、坂が多い長崎の市街地からなかなか脱出できず、苦戦する。
どうにか国道34号線の坂道を(TOT;)ハァハァ言いながら登り切り、排気ガスに溢れる新日見トンネルを抜けると橘湾が見えて来た。

●橘湾 10:03
国道34号線を駆け下り『だいぶ走ったろう』と思っていたが、サイクルコンピューターの走行距離は、無常にも20Km程…登坂で時間を喰ってしまっていた(ノo`)
橘湾
しかし、矢上大橋有料道路に出る頃には橘湾の穏やかな海面が太陽を反射してキラキラと美しく、島原街道(国道251号線)と合流する頃には、これから巡る島原半島も微かではあるが遠望できた。
今日も良い天気になりそうだ(^-^)

●橘湾と棚田 10:51
相変わらず、国道251号線を上がったり下がったり…橘湾と刈り取りが終わった棚田のコントラストが美しい。
橘湾と棚田

やがて道は国道57号線と合流し道路標識に『島原街道』の文字が出て来る。

●雲仙市千々石(ちぢわ)町付近 12:59
千々石付近
地図では橘湾の海岸の沿って走っているつもりなのだが、海がほとんど見えない。
雲仙の山々と刈り取りが終わった田んぼが見えるだけの変化に乏しい街道を数時間程走る。

途中で国道57号線で一旦海岸線が見える県道201号線へルートを変更し、大小の漁港やビーチを右手に見ながら島原半島を南下する。
普賢岳の麓、温泉で有名な小浜町で再び国道57号線に合流するも、このまま国道57号線を進むルートでは雲仙道路の登山道となる為、海岸線を回るルート(国道251号線)を選択する。

小浜の温泉街を抜けてしばらくすると、ついに出たか!╋(゚o゚;)アーメン『キリシタン墓碑』の史跡案内板が現れて来た。

●島原半島:宮崎鼻付近 14:00
1563年(永禄3年)イエズス会修道士ルイス・デ・アルメイダが島原半島でキリスト教の布教を最初に行ったと言われる口之津の南島原市口之津総合支所で小休止している脇を、地元の高校生達が坂道ダッシュして駆け登って行く(゚O゚;)ハァハァ
宮崎鼻付近
その坂を下ると海も橘湾から島原湾・有明海となり、半島を北上する事となる。

南島原市の市街地に入る頃には、『殉教者の■■』や『聖者●●の■』等のキリシタン、島原の乱に関係ある史跡・看板が出てくる。

原城に行く前に原城文化センターへ立ち寄り『島原の乱』についてお勉強!

●原城文化センター 14:56
島原の乱図
この辺りは島原の乱時に参戦した幕府軍の陣所跡で、センター内部には『島原の乱』に参戦したと思われる信者が鉛弾を溶かして造ったの十字架や発掘当時の現場を再現したレプリカ・資料が多数展示されてました。
鉛玉を溶かして造った十字架
╋(゚o゚;)アーメン 
原城文化センター内資料 ╋(゚o゚;)アーメン 

●島原の乱と原城(原城文化センター資料より)
島原の乱と原城

●国指定原城跡(以下、原城文化センター資料より)
原城跡説明文

原城跡海上から

原城跡遠望
約400年ほど前に、こんなに穏やかで美しい有明海や島原を舞台に凄惨な住民迫害と宗教弾圧の限りをつくした『島原の乱』の犠牲者全員に改めて ╋(゚o゚;)アーメンと(-人-)合掌・・・。


●原城跡三の丸:板倉重昌供養碑 15:19
国道251号線を通り、田園風景の中を走る事5分ほどの原城址へ到着する。本丸へ続く道の途中には、田んぼや畑の一角となってしまいっている三の丸跡に板倉重昌の供養碑がありました。
板倉重昌の供養碑
幕府は一回目の乱鎮圧の追討使(全権大将の様な役職)として三河額田1万三千石の領主の板倉重昌を派遣しましたが、一揆軍を鎮圧出来ませんでした。小さ石高の為、味方である九州の大名に侮られた事が原因と言われています。
幕府は更に二回目の追討士として老中の松平伊豆守信綱を派遣しました。
これを聞いた板倉重昌は恥を曝す事を恥じた当時の武士らしく、信綱の到着3日前、家臣郎党と共に反乱軍へ突撃し討死してしまいました。

墓参りしていると、通りかかった地元の方が、本物のお墓は島原市内の『ねはん像』の所あると教えてくれました。秋空と供養碑を眺めていると何故か、『夏草や兵どもが夢の跡』の芭蕉の句を思い出してしまいました(@´_`人
原城案内図
●本丸跡
原城本丸跡
●天草四郎の墓天草四郎の墓
寛永14年(1637年)6月頃から、肥後の天草、肥前の島原一帯にかけて、妖しい流言が広まった。「宗門の中に一人の天才が現れ、奇蹟を行うだろう。その時、東西の雲は焼けて枯れ木に花が咲き、キリスト教が栄えるだろう」その奇蹟の天童こそ、肥後国天草郡大矢野村に住む益田甚兵衛の子、四郎時貞です。
彼はカリスマに祭り上げられる程利発な少年だった様で、「海を歩いて渡った」「鳩の卵の中から聖書を出した」などの伝説も多く残り、反乱軍の首謀者達が不死身だと神格化を描きだし、一揆軍を束ねる存在となりました。
天草四郎像十字架

原城内

●原城址碑原城址碑原城外から有明海を望む原城跡から有明海を望む

●普賢岳と水無川 16:48
普賢岳や水無川の名前を聞くと、平成2年(1990年)11月からの雲仙・普賢岳の噴火や火砕流、そして土石流の災害を思い出してしまいます。
こんなに美しいのに、一旦怒り出したら!麓の街まで焼き尽くす自然の脅威に改めて恐れると共に、災害に対応した人達に頭が下がりました。普賢岳と水無川
『雲仙岳災害記念館』も見学したかったが、日暮れも近くなってきた為断念する。
しかし!西国だけあって東京に比べ日没時間も30分は遅いと勝手に思いつつ、島原城までもう少しと焦りながら国道251号線を更に北上し、市役所を通りの坂を登って行く。坂道は『もうお腹いっぱい、足パンパン』十分いただきました。

●島原城 17:12島原城
やっと到着。やはり西国、日暮れが遅い!明るい!助かった!
島原城は元和4年(1618年)から松倉豊後守重政が、当時森岳と呼ばれていた高地を城の形に切り取って石垣を積み、堀を掘って7年の歳月を費やして築いたものです。
現在は天主閣がキリシタン史料並びに藩政時代の郷土資料・民俗資料を展示してました。
島原城由来

●夕陽が沈む普賢岳 17:44ホテルから見た普賢岳ホテルの窓からは普賢岳の後に沈みかけている夕陽が大変綺麗でした。

●居酒屋にて 19:32
すっかり暗くなった島原の町をフラフラとホテルのフロントに紹介してもらった居酒屋へ入る。プールみたいな水槽には鯛や鯵、平目、エビが泳いでいる。
取り合えず、ビールと島原セット(だったかナ~?)を注文したら、居酒屋刺身島原
いきなり大きな刺身のお造りや焼き魚等がこれでもかと言うぐらい出て来て、ビックリ!
おまけに、正面には桜田門警視庁の名前が入った焼酎が鎮座し、居酒屋警視庁島原
『酔っ払い運転』に睨みを利かせていました。

■本日の走行距離:100.98km
■■合計走行距離:295.75km

■11月4日 晴れ
フェリーは1時間に1便くらいしか熊本へ出ていないので、早めに少し肌寒い国道251号線を走り島原港へ向かう。

●島原港から普賢岳を望む 07:45
島原港から普賢岳を望む
駐車場に到着するも、誰もいない…。
缶コーヒーを買って振り返ると、普賢岳が美しい。

●島原港ターミナル島原フェリー乗場

●フェリーフェリー
08:25~09:10

●船上より普賢岳を望む 08:33フェリーから普賢岳を望む
船と言えば足が遅いと思っていたが、この船はやたらと早く、また晩秋の有明海は風が強いので、吹き飛ばされそうでした!

●船内の自転車フェリーin自転車
こんな装備で鹿児島まで行きました。

行幸橋で坪井川を渡り熊本城へ

●熊本城(加藤清正公像) 10:09加藤清正像
加藤清正公(1562~1611)
は尾張国の出身で豊臣秀吉とは同郷で血縁関係にありました。
9歳で秀吉の小姓となり、その後は天正11年(1588年)の賤ヶ岳の戦いでは有名な『七本槍』の一人に数えられて3千石を与えられています。
天正16年(1588年)肥後統治に失敗した佐々成政の後、肥後北半国19万5千石の領主として隈本城(古城)に入ました。27歳の時でした。
慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦後、南肥後を併せて54万石を領し、慶長6年(1601年)~12年(1607年)に新城落成時に、隈本を熊本に改称しました。
慶長16年3月26日、豊臣秀頼と徳川家康を京都二条城で無事会見させ、5月、領国へ帰路船中で病にかかり、6月24日に熊本城内で死去しました。
加藤清正公説明石

●熊本城(大小天主閣) 10:26
熊本城1
清正のあと、子の忠広が領国を引き継ぎましたが、謀反の嫌疑を掛けられ、豊臣恩顧の大名として外様大名排斥の犠牲となり、出羽の荘内藩へ配流となりました。
その後、豊前小倉城主細川忠利が肥後54万石の城主として入城し、以後10代240年間細川氏の居城となって幕末維新を迎えました。
現在の天守閣は昭和35年(1960年)鉄筋コンクリートで復元したものです。
天守閣、本丸御殿一帯は西南戦争開戦3日前に原因不明の出火で焼失しました。

熊本城2
天守閣は3層6階で地下1階、高さ30m。二層の千鳥破風を備え、外壁は各階の軒下部分だけに白壁を配した以外は黒の下見板で囲まれ、品格ある重厚な趣を漂わせています。
小天守閣は2層4階地下1階、高さ約19m。
大天守の北側にやや西にずらして建てられた別棟です。

黒い甲冑を身に付けた様な姿かたち、造りは、清正が全身全霊を傾けて築いた『実戦向きの城』であった事が分かります( `_´)乂(`_´ )
●銀杏の樹銀杏の樹
銀杏の樹

●熊本城(宇土櫓)宇土櫓
国指定重要文化財。
慶長年間(1596年~1614年)の創建当時から残る唯一の多層櫓で、3層5階、地下1階からなり、第三の天守と言われてます。
宇土櫓2

●武者返し
扇の勾配
『清正流石組』と呼ばれ、独特の弧を描く『扇の勾配』加藤清正が近江国(現在の滋賀県)から率いてきた石工集団『穴太衆(あのうしゅう)』が持つ特殊技術おあ駆使して造られてといわれ、下は30度ほどと緩やかにながら、上に向かうに従って角度を高め、た天端(てんぱ)では75度の絶壁となってます。

●宇土櫓から奉行丸と熊本市内を望む

宇土櫓から奉行丸市内を望む

●本丸御殿大広間  
加藤清正公によって創建され、行政の場、歴代の肥後藩主の対面場(会見の場)として使われてきた『本丸御殿』は明治10年(1877年)の西南戦争で天守閣と共に焼失しました。
現在の本丸御殿は熊本城復元整備計画により復元したものです。

●昭君之間 11:44
床・棚・付書院を備え、障壁画は中国の故事『王昭君』の物語が描かれてます。
いざ大阪に事ある時には、豊臣秀頼を熊本城に迎え、徳川方と一戦を交える覚悟だったと言われ、すなわち『昭君の間』は『将軍の間』であったと言われています。
昭君の間

昭君の間天井

昭君の間隠し扉図

●王昭君の図揚貴妃図
中国、漢の元帝の後宮の美女。
前漢の第11代の皇帝・元帝の時代、時の匈奴(きょうど)の単于(ぜんう:首長の意)・呼韓邪(こかんや)が、の妻とするため、漢の後宮の女性を求めてきた。その際、元帝は後宮の女性(約3千人)の中から、似顔絵帳を見て、一番醜い女性を選びました。
当時、後宮の女性は絵師に賄賂を贈って、美しく描いてもらっていましたが、王昭君は賄賂を贈らなかった為、醜く描かれてしまいました。そして、最後の別れの日、王昭君を見た元帝はあまりの美しさに目(゚ロ゚)を奪われましたが、匈奴を恐れた為Y(>_<、)Y そのまま王昭君を贈ったという次第です(>_<)/~~~~~~~~~~

●若松之間
若松之間藩主が家臣と対面する際に座す18畳の部屋で、昭君之間と同様に付書院が備えられてます。

●西出丸から大小天守閣、宇土櫓を望む 12:04
西出丸から天守閣を望む

●加藤神社12:11加藤神社
文字道理、加藤清正公を祀っている神社です。

熊本城、加藤神社より自転車で2~3分程の距離にある旧細川刑部邸へ向かう。

●二の丸広場時習館こども
途中、時習館跡の空堀を滑り台にして遊んでいる幼稚園児たちの歓声が静かな城跡に響き渡り、空堀を滑り台にしている姿を眺めていると、改めて平和な時代なのだなと感じました。

●旧細川刑部邸 12:29
細川刑部邸
細川家三代(肥後藩初代)忠利の弟、細川小輔興孝が1678年に子飼(現在の東子飼町)にお茶屋として建て、その後下屋敷から本邸として使われました。平成2年現在の三の丸へ移築したのもので、当時の上級武士の生活を窺う事ができます。

●春松閣「銀之間」
春松閣「銀之間」
刑部邸は別称を春松閣ともいいましたが、正式にはこの二階建ての建物をさします。これは当主の私室で、部屋の襖(ふすま)が銀箔を貼ったものであった事から名づけられました。

昼食後国道3号線に戻り南下を開始、今夜の宿(水俣)まで大した距離ではないと「のんびり」考えていたが、後で後悔する事となってしまった。

●八代駅  15:51
八代駅
ここは演歌歌手の八代亜紀の故郷。
肥薩おれんじ鉄道に因んだオレンジの付いた標識や駅舎の写真を撮っていると、駅前タクシーのオジサンが物珍しい動物でも観る様に話し掛けてくる。
「この駅には何故か?駅名の前にJRが付かないんだ!」とか、「八代亜紀ちゃんは年に一回ぐらいしか帰って来ない」とか?自慢気に話し掛けてきました。

これから、水俣市まで行くと話すと、この先の佐敷太郎峠や津奈木太郎峠のトンネルは狭く、長さは結構あるのに換気装置が無いので排気ガスでヤラレル!等の貴重なアドバイスを頂きました。


●有明海の夕陽
17:17
有明海の夕陽
有明海の夕陽は美しいが…夜間走行は出来るだけ避けたい。

しかし、水俣市に入る峠道で夜に追いつかれてしまい、外灯も無い草ボウボウの歩道をトロトロと転がす様なスピードで走るしかなかった。

この峠道にはエライ目にあった(>д<)
特に左足の脛毛に雑草がいっぱい付いていたのが不気味でした(@_@;)

■本日の走行距離:120.70km
■■合計走行距離:416.45km

■これからの電波おやじ自転車の「旅」の参考にしたいと思います。
 ご迷惑でなければ、コメントや拍手を頂ければ、大変幸せです。宜しくお願いします<m(_ _)m>
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╋(゚o゚;)アーメン

普賢岳・・・ぉぉ・・・予知夢で見たお山・・・。

加藤清正公・・・今日、某ビルの前でパック酒をかっくらっていた、おじさんのポーズと一緒です。

刑部邸当主の私室の床の間の壁紙?が美しい。

有明海の夕日も美しい!

Re: タイトルなし

> ╋(゚o゚;)アーメン
>
> 普賢岳・・・ぉぉ・・・予知夢で見たお山・・・。
>
> 加藤清正公・・・今日、某ビルの前でパック酒をかっくらっていた、おじさんのポーズと一緒です。
>
> 刑部邸当主の私室の床の間の壁紙?が美しい。
>
> 有明海の夕日も美しい!

╋(゚o゚;)ザビエル 電波おやじ です!

ただ今薩摩鹿児島編を作成中、近日公開予定です。

乞うご期待!!
プロフィール

55GATs

Author:55GATs
年齢58歳 男性 血液型O型 身長176㎝ 体重67.4㎏ 体脂肪率21.4% BMI21.8 内臓脂肪レベル7 体年齢43歳 未婚
某通信会社勤務 
趣味:①ロードスポーツサイクルでの全国縦断(外周)の旅。②1/144の戦車や飛行機スケールモデル造りとオークション販売。③読書(特に歴史時代小説)④映画観賞(但し、ホラー等の怖い、気持ち悪いのはダメ)⑤TV視聴:頭を使わないUFO・宇宙人・UMA(未確認生物)や白痴TV番組等が好きです。
⑥お酒は何でもOK(お付き合い程度)

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