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電波おやじ琵琶湖~関ヶ原の旅 PARTⅡ

■9月19日(日):快晴

■08:42 姉川姉川標識
ここは元亀元年(1570年)8月9日織田信長・徳川家康軍と朝倉景健・浅井長政軍が対決した古戦場。実際の古戦場はここから数キロ離れている国道362号線が姉川を渡る野村橋辺りで、狭い川を挟んでの( `_´)乂(`_´ )合戦だったと言われています。姉川

■09:15 長浜城址長浜城址①
姉川合戦と小谷城攻めで手柄をあげた豊臣秀吉が天正3年(1585年)に築城した居城です。現在の長浜城は昭和58年(1983年)に再興されました。
長浜城説明文

■本丸跡
長浜城本丸跡
もう空は秋空 Σ^)/カア~

長浜城址②
城内には秀吉と長浜に関係する資料として、秀吉の兜や長政・おねの声が聞けるコーナー、その他に国友鉄砲鍛冶集団で有名な火縄銃等が展示されてました。

■天守閣望楼から竹生島方面を望む長浜城望楼から

■高市連黒人(たけちのむらじくろひと)歌碑
国道2号線経由で彦根城へ向かう途中に磯崎神社がありました。
湖側にある万葉集の歌人 高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の『磯の崎漕ぎたみゆけばあふ美の海八十の湊に鶴さはに鳴く』の歌碑前で小休止。高市連黒人の歌碑

湖周道路から彦根市内に入ると緑に囲まれた彦根城の天守閣が見えて来る。
お城の近くでは昔懐かしいボンネットバスが御城下を巡回してました。

■10:45 国宝:彦根城
彦根城遠望

慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦時の鉄砲傷が原因で亡くなった井伊直政の跡を継いだ、嫡子直勝が慶長8年(1603年)から元和8年(1623年)の20年間を掛けて完成させた天下普請の城です。
※天下普請:江戸城、駿府城、名古屋城等の築城に際し、外様大名に財力を消耗させる幕府の大名統制策の一つ。

■開国記念館開国記念館

■表門橋・表御殿表門橋表御殿

■廊下橋廊下橋
天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城の楼門を移築したと言われてます。
■天秤櫓
天秤櫓

■天守閣
天守閣は大津城天守閣を移築し慶長11年(1606年)に完成たものと言われていましたが、解体修理時に一部転用が判明したとの事です。彦根城天守閣①

彦根城天守閣説明文

■14:51 てんびんの里てんびんの里
歩道橋の手前に『てんびんの里』の石碑があった。ここは天秤を担いで全国を行商し、売手によし、買手によし更に世間よしの「三方よし」で有名な近江商人の故郷です。
ここから近江八幡12km大津48kmの距離表示がありました。

フラフラとお城巡りした為、まだ半分しか走っていない、天気も悪くなりそうだ(o_o ;)コマッタ 気合いを入れて、国道8号線で最終訪問地の安土城址へ向かう。


■15:40 安土城址
安土城址
東海道本線JR安土駅前を通る、信長公時代で有名な楽地楽座の城下町も、今はただの寂れた田舎駅前となっていた。
近頃の歴史ブームの為か?若い歴男歴女が駅と隣接する歴史記念館を出入りしているのがせめてもの救いだ!
陸橋で東海道線を越え、今にも雨が降りそうな雲行きを気にしながら安土山まで市街地と田園の中を爆走する事20分程で安土城祉に到着。

■安土城
織田信長公が天正4年(1576年)から天正7年(1579年)頃にかけて、標高199mの安土山に築城した国内最初の外装五層(内装七階)の天守閣(天主閣)を持つ平山城でした。当時の城の様子をポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは「城下町の中央の丘の上に、ヨーロッパの最大の建物に匹敵するほどの、壮大要害堅固な宮殿と城を建てた…。」と記載している程の名城でした。

安土城祉説明文

しかし、天正10年(1582年)6月2日未明の京都・本能寺の変後、同城は6月13日の山崎の合戦で明智光秀が敗死し、明智秀満(光秀娘婿)が坂本城まで撤兵するまで占拠していました。しかし、織田信雄(信長次男)が無人の同城へ入城し、6月15日火をかけ一夜のうちに焼失したと言われています。(私はこの説を取りたいと思います。)
フロイスは「こんな名城をさしたる理由もなく焼くとは、信雄は気違いか、大馬鹿者か」と痛罵しました。…敵の明智軍も焼くにはおしい名城だと思い、手を付けなかったと言うのに、本当にアホだ! おやじの信長が生きていたら追放か切腹ものだ!!

■安土城大手道石段安土城石段
写真の通り、信長の恐れを知らぬ気性を反映した為か、普通の城閣の様に外敵の侵入を阻止する複雑な造りではなく、ほとんど幅広い石段による一本道でした。それにしても3年ほどの短日数でよくここまで人力だけで造ったものだと感心すると共に、信長の力に驚きました。

■大手道:伝羽柴秀吉邸跡羽柴秀吉邸跡
急な石段を登って行くと途中に伝羽柴秀吉邸跡や伝前田利家、更には、少し上の方には伝徳川家康邸跡がありました。

■信長公本廟
信長公本廟
天正11年(1583年)2月羽柴秀吉は二の丸跡に信長の太刀、烏帽子、直垂等の遺品を埋葬して本廟とし、一周忌の6月2日に織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行いました。

■天主跡より琵琶湖方面を望む
信長はこの景色を、七層の天守閣から眺めたのか!天守閣から琵琶湖方面を望む
当時は琵琶湖の内湖がすぐ近くまで来ており、湖面から見た天守閣は、さぞかし荘厳豪華だったと思います。

■天主台跡天主台跡
今は礎石が1.2mおきに並ぶだけだが、ここは地階にあたり、この上に五層七階(地上6階地下1階)の天守閣が有り、内部は狩野永徳の障壁画により装飾が施されていました。
天主台説明文

■本丸跡
本丸跡
天守閣から少し下った所に本丸跡はあります。
ここには天皇を招き入れる「御幸の間」があったと「信長の公記」には記載されています。
信長は安土城への天皇行幸と天皇家の権威まで掌握しょうと望んだのでは…?これが本能寺の変の原因の一つではないか?と勝手に想像してしまいました。
本丸跡説明文

■仏足石仏足石
仏足石は釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもので、黒金門の近くに飾られていたが、崩れた石垣の中から出て来たと説明板にありました。無神論者の信長らしく築城時の石材不足を補う為利用されたものらしい。

天守閣から本丸へ、そして伝織田信忠(信長嫡男)邸跡を通り総見院本堂跡へ向かう。

■総見院
信長公が建てた自らの菩提寺。仮本堂は伝徳川家康邸跡に建てられ現在に至っており、信長公旗印「永楽通宝」銭を散らした銀象眼の鉄鍔(まけずのつば)と陣羽織が伝えられ、寺宝となっています。

■総見院本堂跡からの眺め総見院本堂からの眺め

■総見院:三重塔(重要文化財)総見院三重塔
天正の3~4年に信長公により甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)より移築したものと言われています。

■総見院:二王門(楼門) (重要文化財)
総見院山門
天正年間、信長公が甲賀から移築した楼門で、門内には金剛力士像が安置されており応仁元年(1467年)因幡院朝作の造像銘が残る門同様に重要文化財です。

■大津駅前居酒屋にて
一日振りに大津へ戻る。何故か親戚のいる町へ来たみたいでホットする。
とりあえず、駅前のレトロな造りの居酒屋で晩酌&夕飯を…。大津居酒屋塾先生
隣のカウンターで塾の先生夫婦と意気投合し、更には店長まで巻き込んでしまいました。大津居酒屋店主皆さん!楽しい大津の夜を有難うございました。

■走行距離:96.87km


■9月20日(月):晴れ
■9:31 大津駅

今日が輪行ツーリング最終日。
朝食後ホテルで出発前の点検、後輪が見事にパンクしている。(ノO`)アチャー
修理にかかるも1時間遅れの出発となる。
大津駅まで自走し修理後の度合いをみる、問題なし。東海道本線で米原駅を目指す。
大津駅ホーム昨日通って来たルートを遡る様に車窓の景色が走る。
沿線は思っているより田園が多く、国道8号線(北国街道)や東海道新幹線より琵琶湖の近くを走っている事に気づく。
次回は近江八幡辺りも旅してみたい。

■11:09 番場の忠太郎像
新幹線の乗換駅、米原駅到着。番場の忠太郎
※番場忠太郎は、劇作家・長谷川伸の「瞼の母」の登場人物で、幼い頃分かれた母親を探して旅をするヤクザ者です。
江戸で料亭の女いおや将さんになっている母親と出会います。しかし異父妹の婚礼が近い為、親子の名乗りも出来ず、道中合羽を背にしたまま身を隠し、その場を立ち去ります。
そんな胸の内を歌った歌が「瞼の母」です。

国道21号線(旧中山道)を左手に見ながら関ヶ原方面へと向かう。この辺りは山間の為、名神高速道路や東海道新幹線が近江から美濃の狭い国境(くにざかい)の不破関(ふわのせき)の出口を求めて並走している様だ。

■12:03 関が原古戦場跡
関ヶ原古戦場跡
慶長5年(1600年)9月15日 上杉景勝征伐軍を率いる徳川家康(東軍)と毛利輝元を盟主と担ぎ上げた豊臣家五奉行の一人である石田三成(西軍)の軍勢(両軍合わせて十数万)が天下分け目の決戦に臨んだ古戦場跡です。
関ヶ原合戦のあらまし
結果は皆さんご存じの通り、小早川秀秋らの裏切りにより西軍総崩れの結果、東軍の勝利となりました。
ここには3年程前にも来ましたが、徳川・石田両軍の旗が増えている以外は何も変わりが無く、何でも商売にして遊園地化してしまう日本人の悪いクセが出てなく安堵しました

■決戦地
関ヶ原決戦場

■笹尾山(石田三成陣本跡)笹尾山⊂・^ミ 馬防柵でしっかり防御

■石田三成陣本跡から桃配山(徳川家康本陣)方面を遠望
三成本陣から桃配山を望む
あの山に家康がいるのか!と三成は鬼の島左近らと(`´)にらんでいた事でしょう!!

昼食後、国道21号線を東進、最終輪行の垂井駅(たるいえき)へ向かう。

■13:45 竹中半兵衛の里(垂井町)
交差点で止まると戦国智将、竹中半兵衛の里なる標識を発見。竹中半兵衛の里
是非にあらず!行くしかない!!と右折して小川が流れるダラダラ坂道を登る事10分程で屋敷跡へ到着。
屋敷跡は朝倉公園となっており、今は地元の子供達が走りまわり、伊吹山系が遠望出来る山里の公園となっていました。浅倉公園

JR垂井駅から東海道本線に乗り大垣経由で岐阜へ、そして名鉄各務原(かがみはら)線でツインブリッジ犬山橋を渡り犬山遊園駅へ到着。
ここでクロネコさんに自転車を引渡し、木曽川沿いを徒歩で本日のお宿へ向かう。

■17:37 犬山市(夕暮れの木曽川)夕暮れの木曽川
山並みに暮れ行く夕日が美しい。
しかし、宿に到着しても誰も出てこない、物騒な半面、人心が擦れていないのだろう!何てノンキなんダ!

■19:26 木曽川の鵜飼(漁火)漁火
宿のオヤジさん(社長?)が言うには、宿の玄関先の木曽川で鵜飼いが見られるとの事なので、早速、ひと風呂浴びて晩飯後、鵜飼いを見物する。
遠くから漁火が段々と近づき大きくなって来るのが待ちどうしい!!


■犬山城(ライトアップ)
犬山城夜景
鵜飼いを見た後、木曽川沿いをライトアップしている犬山城へ向かう。
暗闇の中から時々フラッシュが光る。

■走行距離:33.27km
■走行距離合計:237.77km

■9月21日(火):晴れ
■08:24 犬山城
犬山城遠望
天守閣は現存する国宝の四城(犬山城・彦根城・姫路城・松本城)の中で最も古いお城です。また別名を白帝城とも呼ばれ、江戸時代に※荻生徂徠(おぎゅうそらい)が犬山を訪れた際、雨に煙る城と木曽川の激流が岩壁を洗う光景を見て、揚子江の白帝城を詠った杜甫(とほ)の詩になぞらえて命名したものです。犬山城正面
※荻生徂徠(おぎゅうそらい):江戸時代元禄享保期の儒学者

本城は天文6年(1537年)織田信康(織田信長の叔父)が木曽川の断崖に築城したのが始まりで、天正12年(1584年)の※小牧・長久手の戦いで秀吉が着陣入城した事でも有名です。
その後、元和2年(1616年)尾張徳川義直(家康九男)の付け家老として成瀬正成(まさしげ)が城主となり、子孫が明治維新を迎えました。
犬山城
明治24年の濃尾地震時の天守閣の付櫓の修復を条件に成瀬家所有の城となりましたが、
現在は平成16年4月財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され管理されてます。
犬山城の歴史

※小牧・長久手の戦い
天正12年(1854年)3月、賤ケ岳の合戦で織田家筆頭重臣の柴田勝家を討ち、天下の第一人者となった羽柴秀吉と織田信長の遺児(次男)信雄(のぶかつ)と徳川家康の連合軍との間で起こった合戦。秀吉は犬山城に、家康は小牧山へ陣を敷いてにらみ合い、3月17日の羽黒(犬山市羽黒)や4月8日の長久手(愛知県愛知郡長久手町)において家康の本国の三河へ遠征攻撃に向かう秀吉方を別動隊で先回りさせ、翌9日早朝、これを奇襲挟撃し、森長可(森蘭丸の兄)や池田恒興(つねおき)父子が討たれ、遠征軍総大将の羽柴秀次は命かながら落ちのびる程の家康の勝利であったが、そのうちに戦に嫌気がさした信雄(のぶかつ)が勝手に和議を結んでしまった為、やむなく家康も秀吉に屈して臣従しました。

■望楼から木曽川を望む犬山城望楼より
廻廊の手すりが低くて、高所恐怖症の電波おやじは、望楼を回るのにも一苦労、お城の壁伝いで一歩一歩カタカタ震えながら回りましたが、途中で何故か?自衛隊の飛行機が天守閣をかすめる様な低空で間近を飛行した為、更に恐怖が倍増してしまい、半周程でリタイアしてしまいました。怖かった!
後で聞きましたが、ここは近くの各務原(かがみはら)飛行場への飛行ルートとなっており、航空イベント時には木曽川上空で航空自衛隊ブルーインパルスの曲芸飛行が見られるそうです…。

■小牧山遠望小牧山遠望
街並みの先の小高い山が小牧山です。

■犬山市町屋犬山市町屋
Y(>_<、)Y 怖い思いしたご褒美に、昔懐かしいラムネを一本!

名鉄犬山駅から名鉄小牧線で小牧駅へ、更に市内バスに乗り市役所前で下車し小牧城(小牧市歴史館)の麓に到着。小牧山城遠望

■12:02 小牧山城(小牧市歴史館)史跡小牧山

小牧山説明文

■土塁跡
土塁跡
土塁説明文

小牧城は平松茂氏(故人・小牧市名誉市民)が私財を投じて建設した三層四階建ての高さ19.3mのコンクリートのお城です。小牧山城址
内部には原始~近代、そして小牧・長久手の戦いを立体パノラマにしたコーナーがあり、音声と映像で分かりやすく解説してました。山の麓には小牧・長久手の戦い時に築かれた濠や堤も発掘されており、往時が偲ばれます。
小牧山城説明文

名鉄小牧線で平安通へ、地下鉄名城線に乗換え市役所で下車し名古屋城へ向かう。
地下鉄と噴水
瓦屋根の地下鉄の駅を噴水の脇を通り外へ出るとお城のような名古屋市役所と愛知県庁が見えて来る。名古屋市役所と県庁

■14:48 名古屋城
『尾張名古屋は城でもつ』
徳川家康が東海道の要所として、また、大阪(豊臣)方の備えとして、慶長15年(1610年)加藤清正・福島正則・前田利常等の諸大名20名に普請を命じ、五層六階の天守閣は加藤清正が願い出て慶長19年(1614年)に完成し、元和2年(1616年)家康九男義直が入城した平城です。その後、明治維新までの間、御三家の筆頭尾張徳川家の居城となりました。
■正門名古屋城正門
明治43年に旧江戸城の蓮池御門を移築したものです。太平洋戦争で焼失後、昭和34年に天守閣と共に再建されました。

■金の鯱鉾(雄)金の鯱鉾
名古屋城で有名な金鯱は、当初、慶長小判1,940枚を用いて造られ、3回泥棒により金の鱗を剥ぎ取られたとの事です。

■名古屋城案内図
名古屋城案内図

■西南隅櫓と天守閣
西南隅櫓と天守閣
西南隅櫓:明治24年の濃尾大震災で崩壊後、宮内省により修理復旧されました。だから、鬼瓦などに徳川の三葉葵ではなく、菊花紋が付いていたのか!

■天守閣
天守の高さ、延べ床面積共に豊臣大阪城を越え、高さは江戸城天守閣が完成するまで最高でした。
名古屋城天守閣 天守閣②

■石垣の刻紋
石垣の築造を命じられた大名が、他の大名の石と区別する為に刻んだ「目印」です。
石垣の刻紋

■外堀外堀

■車窓から富士山
富士山
17:30名古屋発のぞみ38号で帰宅。夕暮れの車窓に富士山が見えて来た、今回の旅も無事に終わりました\(*^ー^)/
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Re: はじめまして

あんこサン
おはようございます。電波おやじです。コメント有難うございます。

10/30~11/7まで博多~鹿児島まで約530kmの旅して来ました。
台風が日本へ迫っていましたが、調度、本州~関東地方への接近と入れ違いで、ツーリングの期間は概ね晴れ又は曇りでした。
真夏でもないのに、東京に戻ったら顔が真っ黒になっており、少し驚きました。

さて、遠距離の場合にはクロネコのヤマト便で旅先へ送る事も、また、輪行バックで電車や車へ積んで行く方法があります。
ヤマト便を利用する場合には事前にJAC(財団法人日本サイクリング協会)へ登録して、合わせてヤマト便も申請した方がよいでしょう。
因みに、鹿児島から東京(練馬)まで自転車を送付しても2,210円でした。大きさの割には普通の荷物より安いと思います。
あとは、今乗っている自転車が輪行バックに入れて出発です。
私は直ぐに組み立てられる前輪外しの輪行バックを使ってます。

琵琶湖巡りの時、ホテルのブレーキの効きが悪いママチャリを借りて、近場を往復5km程走りました。

今、今回の九州(博多~鹿児島)のブログ作成と、旅していた留守に実家のある川越の『小江戸川越検定委員会』より2級を申し込んで~。との封書を見ている所です。

あんこサンも歴史好きの『歴女』と拝察します。
何か○○検定とか?受験した事などあるんですか?

電波おやじの歴史レベルは、歴史能力検定の日本史と世界史の2級と江戸文化検定の2級です。それとか川越の3級です。(でも大分、忘れちゃたけど…笑)

また、コメント下さい!!








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プロフィール

55GATs

Author:55GATs
年齢58歳 男性 血液型O型 身長176㎝ 体重67.4㎏ 体脂肪率21.4% BMI21.8 内臓脂肪レベル7 体年齢43歳 未婚
某通信会社勤務 
趣味:①ロードスポーツサイクルでの全国縦断(外周)の旅。②1/144の戦車や飛行機スケールモデル造りとオークション販売。③読書(特に歴史時代小説)④映画観賞(但し、ホラー等の怖い、気持ち悪いのはダメ)⑤TV視聴:頭を使わないUFO・宇宙人・UMA(未確認生物)や白痴TV番組等が好きです。
⑥お酒は何でもOK(お付き合い程度)

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