昨年10月11日に日帰りで『さきたま古墳群』と『忍城跡』までのツーリング記を公開します。
天正18年(1590年)、山陽道PARTⅡで見学した備中高松城の『水攻め』を手本にして、豊臣秀吉の小田原攻めに呼応する形で秀吉の懐刀(ふところがたな)石田三成を総大将とする関東征伐軍が、北条軍(成田氏)の守る埼玉県北部行田市にある関東七城に数えられた忍城を同様に『水攻め』しました。
城攻めの結果は後程ご説明する事として、ご覧下さい。2009年10月11日(晴れ)
●10:00 川越(実家)出発、秋晴れの中、古谷の田んぼの中を通り荒川を超え、国道16号線で大宮市内へ向かう。
大宮市内で中山道~国道17号線に乗り、上尾~桶川~北本と一路北上する。
機会があれば、中山道でまた近江の国(滋賀県)大垣や京都まで行ってみたい。
●12:46
鴻巣市内で熊谷バイパスへ右折、上越新幹線を潜りぬけ田園風景の走ると『忍城跡』までもう少しの標識が出てくる。

昼食を取りたいが回りは田んぼばかり、食堂やコンビニ等見当たらない。どうにか、旧忍川沿いの『さきたま古墳群史跡』近くのコンビニで昼をとる。
■国指定史跡■埼玉古墳群
埼玉県の県名発祥の地、行田市大字埼玉に5世紀後半から7世紀初めに造られた9基の大型古墳からなる古墳群です。
古墳と言えば大阪府の仁徳天皇陵や大和朝廷があった奈良県が有名ですが、北埼玉にもこの様な古墳群ある事は、当時この辺りは実り豊かで文化が進んだ小国家群があったのでは…。と、勝手にいにしえの古代史を想像してしまいました。
●13:35 丸墓山古墳 駐車場から丸墓山古墳に向かう並木道は、石田三成の忍城水攻めにしたとき築いた堤防の一部で、「石田堤」と呼ばれてます。

急な階段を登り、文字通り、まんまるな日本最大の円墳の頂上へ。
ここに石田三成が『水攻め』の時に陣を張ったとの事です。
頂上からは回りに遮るものが無い為か、榛名山が近くに見え、桜の木陰から遠くに筑波山や富士山が秋空の中から頭を覗かせてました。桜の季節にはさぞかし綺麗だろう。
●丸墓山古墳から稲荷山古墳を望む
●稲荷山古墳
この古墳からは「金錯 銘鉄剣」(きんさくめいてっけん)が出土し、刻まれた115文字の銘文は、5世紀後半のものと考えられ、古代東国の謎を解く文字として貴重なものです。鉄剣は、他の出土品とともに昭和58年6月、国宝に指定されました。

銘文には『(わたくし)ヲワケの祖先は、代々杖刀(じょうとう)人首(親衛隊長)を務めてきた。わたくしはワカタケル(雄略天皇)に仕え、天下を治めるのを補佐した。そこで辛亥(しんがい)の年(471年)7月に、この素晴らしい刀にこれまでの輝かしい功績を刻んで記念とする』と記されています。

●13:55 将軍塚古墳6世紀後半に造られた古墳で、明治27年(1894年)に地元の人々により発掘され、横穴式石室から馬冑(ばちゅう)や旗さし金具等の副葬品が出土しました。
墳丘には復元した埴輪が立てられてました。
実物の横穴式石室を見学できる国内最初の施設として、将軍山古墳展示室を設置してます。

●将軍塚古墳展示館石室展示暗闇の中から埋葬状態を示す横たわった人形やレプリカが浮かび上っている様子は、少し薄気味悪かったです。
●14:04 騎馬武者像
暗がりに浮かぶ馬と大陸的な印象が色濃く感じられる顔が灰色の騎馬武者像を見て、小さい女の子が『怖~いよ~』と泣きそうでしたo(T□T)o 確かに不気味でした!
●15:35 忍城御三階櫓(ごさんかいやぐら)陽が西に傾き大急ぎで【忍城跡】へ向かう。
文明年間(1469~86年)の初め頃に築城され、戦国時代に上杉、北条氏との戦いにも落城せず、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の関東征伐軍2万数千の大軍と石田三成の下手な水攻めにも耐え、小田原城開城まで籠城した名城です。
当時の城主は成田長親、領民からは※「のうぼう」と呼ばれ親しまれた変わった大将だったとの事です。
三成は忍城の周囲が池・沼である事から、秀吉の備中高松城の『水攻め』をまねして(一説では秀吉の命令)にて20~30Kmにも及ぶ堤を地元領民に造らせました。
季節は梅雨、大雨と手抜き工事で堤は決壊、濁流は寄せての三成軍に流れ込み水攻めは失敗に終わり、後には広大な泥濘地が残り、寄せ手は攻めあぐねる始末。
結局、北条氏の小田原城開城まで籠城し10倍以上の三成軍を翻弄(ほんろう)しました。
徳川家康の関東入部後は、家康の四男の松平忠吉が忍藩10万石政庁が置かれました。
※2011年公開予定の「のうぼうの城」和田 竜原作、狂言師の野村萬斉が成田長親役が今から楽しみです。
因みに「のうぼう」とは「でくのぼう」略です。
■おまけ:川越まつりの山車
実家の前を地元町内の川越まつりの山車が通りました。山車を見るのは何年振りかな?懐かし~い!

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